*和歌山市民図書館移民資料室 ヘンリー杉本の絵 和歌山県和歌山市 Henry Sugimoto















 



































和歌山市の市民図書館に日本で唯一の移民資料室があります。
ここにはヘンリー杉本のキャンプシーンの絵画のほとんど、当時の様子の写真集、移民の人らの書いた新聞のマイクロフィルムなどが保管されています。
オーストラリアへブラジルへアメリカへ、世界中に渡った日本人の移民について 日本中世界中から 調べ物に訪れる人がいます。
*************和歌山市民図書館の方が話してくださった内容 ほぼそのままです。
ヘンリーさんが持っておられた収容所の絵画(キャンプシーンと呼ばれる絵画)がなぜここにあるかといいますと
和歌山市民図書館には全国唯一の移民資料室という部屋があります。
日本人の海外移住関係の資料ばかりを集めた部屋で約1万点くらいの本があります。全国唯一です。
キャンプシーン/収容所の絵画は戦後なかなか公開されませんでした。
昭和55年になってようやく公開されました。
ヘンリーさん自身がこれをオープンにすることによって日米の摩擦が起こるかもしれない、
物議を呼ぶかもしれないということを大変気にされていたそうで なかなかうんと言ってくださらなかったそうです。
ですが 周囲の勧めで日本で初めて公開され 収容所の当時の生活・風景は大反響を呼びました。
当時公開された36点の絵画の他 スケッチ画を合わせて計54点がそっくりそのまま和歌山市に寄贈されました。
ヘンリーさんの故郷和歌山で大事に置いておいてもらいたいという思いをいただき ここにあります。
日本人は移住先では少数派で白人から差別を受けたり攻撃を受けたりして肩身の狭い思いをして
苦難、苦労を重ねてきた歴史がありますが その地域の発展、経済の発展に貢献しています。
そういった日本人の移民の姿を伝える大事な資料として 特に戦争中に日本人がどういう運命を被ったか
美術品なんですが ここでは当時の様子を伝える資料としても 皆さんに見ていただいております。
太平洋戦争で日本とアメリカが戦い 空襲で日本は焼け野原になりました。
当時 アメリカに住んでいた日本人がどうしていたかということはあまり知られておりません。 
アメリカに住んでいた10万人超の日本人のほとんどが 立ち退き命令を受けて 強制的に 
砂漠の中に作られた粗末なバラック建ての強制収容所というところに収容されることになりました
ヘンリー杉本さんは本名杉本譲さんとおっしゃいます。和歌山市に生まれました。
もともとお父さんお母さんが 移民としてアメリカに渡っていて 呼び寄せられています。
18歳くらいだったと聞いています。
幼いころ両親が出稼ぎ移民として北カリフォルニアに行ったので祖父母に育てられます。
19歳で渡米 絵の勉強をし 美術学校に通い その後フランスに留学 そこで新人賞をもらい 
アメリカに帰ってきて展覧会などを開き 着実に美術家としての地位を確立しつつある中での戦争勃発でした。
アメリカへ渡った時 苦学して夜間美術学校へ通いながら
昼間はスクールボーイとして白人の家に住み込み家の手伝いなどをしていました。
ヘンリーさんという名前は その時につけられたそうです。
収容所で絵を描いているとスパイと間違われるかもしれないので 最初はこっそりと描いていました。
ベッドシーツにコンテとかクレヨン、そして化粧品に紛れさせて持って行った油絵具
限られた画材でこっそりと描いていましたが ある日収容所の責任者に見つかります。
責任者の方が理解のある方で もっと描きなさいよと言ってくれたんです。
その辺がアメリカって国は寛容で諸文化に理解がある、すごいですね。
ヘンリーさんは収容所内の高等学校の美術家の教師に抜擢され それからはキャンバス、絵の具を支給されてどんどん描けるようになったということです。 
戦後になってヘンリーさんは住まいをニューヨークに移します。931年サロンドートンヌに入選
風景画家としてパリのサロンで認められました。
しかし 日米開戦で収容所で過ごした日常を描いた【キャンプシーン】は作風が全く異なります。
理不尽な現実をありのままに描いたものでした。
ココ和歌山市民図書館3階にあるヘンリー杉本さんの絵画は大きく3分類できます。
1.日本人がどういう生活をしていたか 当時の生活の様子 
2.当時の黄色人種として白人からひどい差別を受ける様子
そしてもうひとつ アメリカで生まれた日本人にはアメリカ国籍があります。
3.日本から行った1世とアメリカで生まれた2世との意識の違い 世代間の確執のようなものを描かれています。当時の西海岸は日本人に対する差別が激しいところだったのを意識したのかもしれない(憶測ですが)
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私の移民2世の二人の友達。
ひとりはお母さんが日本で死にたいといったから 日本語頼りないのに10年ほど黒田へ住んで お母さんが亡くなった後 高野山で手配をしてからロスへ戻りました。
その後 向こうの司法局から相続しますか否ですかという手紙が来て マジで必死で必死で疎遠だった親戚を探し当てて連絡して引き継いだことがあります。
英語を習ってたうちの息子の手紙を大事に残してくれていたそうです。彼は最後ひとりだったことを知りました。きっと日本へ来たからです。
もうひとりは今まで出会った中で1番尊敬する友達 彼が大阪へ会いに来てくれる道中新幹線で描いてくれた絵をフェイスブックのカバーにしています。宝物です。
両親をロスへ招待してる時 お父さんが危篤になって ハワイで死にたいという希望を叶えるために看護婦さんとかセットでチャーターして750万、けど亡くなってしまいます。
聞いたら キャンセルできなかったそうですがお金は何とも思わないみたいでした。
どちらも親の苦労を知っているからそこまで出来るんだと思います。
先人の、異国で信頼をつかむ想像を超えた努力があるから日本人は世界で信用されるのだと思います。


















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